碁のうんちく:囲碁を日本に伝えたのは?
囲碁に関する蘊蓄(うんちく)は直接、上達につながるものではありませんが、囲碁への愛着度を高めることによって、潜在的に上達への意欲を高めるものです。ここでは囲碁を日本に伝えたのは誰か、巷間に流布されている吉備真備説は正しいのか、ということに関する蘊蓄を披露しましょう。また、現在の19路盤になる前に17路盤があったという説に関しても、話のタネになります。
囲碁は中国で生まれた盤上ゲームですが、発祥の詳細は分かっていません。一部の文献には「中国の始祖である皇帝が創成した」との記載があるようですが、これは後世の人の創作です。古い文献にあるからといって必ずしも信用できないのは、日本も中国も同じなのですね。しかし、少なくとも紀元前数世紀頃には中国で囲碁が打たれていたことは、中国の史書から確かなようです。
日本では枕草子や源氏物語に囲碁の描写があり、源氏絵巻にも対局を楽しむ様子が描かれています。さらにさかのぼれば、奈良時代(710〜794年)にも宮廷では碁が打たれていたことが、様々な文献から分かっています。それでは、日本にはいつ頃、誰が碁を伝えたのでしょうか?
最も有力とされているのは8世紀前半、唐に留学していた吉備真備(きびのまきび)が伝えたという説で、若干の疑問符付きながら半ば常識化しています。ところが、わが国最古の漢文詩集『懐風藻』に、それを覆す記載があります。
『懐風藻』によれば、「弁正法師という人が少年時代に出家して唐に留学し、即位前の皇帝になる人に会って、囲碁が上手なので厚くもてなされた」とあります。留学は大宝年間(701〜703年)のことですから、吉備真備の帰国より少し前の出来事です。かの少年は留学前からすでに囲碁の腕前が相当だったことになり、当時の日本に彼が強くなる囲碁環境があったと考えられます。これで囲碁伝来は、ますます謎に包まれてしまいました。
吉備大臣入唐絵詞と続日本紀の長屋王
囲碁に関する記述や絵画は多く遺されていますが、その中の一つに「吉備大臣入唐絵詞」というものがあり、唐の上手と碁を争う吉備真備の姿が生き生きと描かれています。そのため、吉備真備説には妙な説得力があったのかもしれません。しかし、『続日本紀』の天平10年(738年)の記載に、「長屋王が碁を打っている最中に、話のもつれから争いになって、相手を剣で切った」ことが記されています。このことからも、当時すでに宮廷では碁が日常的に打たれていたことが、容易に想像できます。
囲碁に関しては文献資料だけでなく現物としても、正倉院に現在と同じ19路の碁盤が遺されています。これが現存する日本最古の碁盤ですが、その前に17路の碁盤が使われていたという説が古くからあり、中国の古い歴史書にもそれが推定するできる記載があることが指摘されていました。しかし、日本の古い資料では17路盤で打たれた「証拠」が見つかりません。
決着をつけたのは、囲碁を愛する無名の旅行者でした。彼はチベットを旅行中にダライ・ラマが保存していた囲碁の17路盤を「発見」したのです。このことは、1976年7月10日の『赤旗』の記事に載り、19路盤になる前に17路の盤で打たれていたことの物的証拠となりました。
ところで、17路盤よりは19路盤のほうがはるかに面白いことは、やってみれば分かります。17路盤では辺への展開が窮屈で、ヒラき過ぎると即座に打ち込みが来そうです。布石の面白さがかなり減るのですね。ですから、17路盤が19路盤の後に生まれたとは考えられません。また、19路盤から21路盤に発展しなかったのは、やはり現在の囲碁がゲームとして究極の到達点であることを物語っているといえるでしょう。
参考文献:
ものと人間の文化史「盤上遊戯」(増川宏一著・法政大学出版局発行)1978年
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